ヨガとは

ヨガとは、

この宇宙すべてとのバランスと

調和を意味します。

 

これは、ダンスも同じです。

人々は、幸せに生きるために、

ダンスをして自然に祈り、

生きていることに感謝するために、

自然に感謝して踊り、

自然のリズム、四季のめぐり、

を感じながら、調和しながら、

心身のバランスを調整してきました。

 

「生き方」 の調整という

役割をヨガは果たし、

全てに均衡がとれることを、

空の概念であらわしたり、

無の境地といったり、

慈愛、平和、真実 を見出したり、

曼荼羅にもあるように、

この世のすべてのもの、

宇宙との調和の大切さが

様々な方法で伝承されています。

 

 

 

伝統的なヨガ

ヨガは仏教との関わりも大変深いものです。 

ヨガも仏教もインドが発祥の地です。

例えば、瞑想は、ヨガだけでなく、

仏教にもとりいれられているのは、

一般にも知られていると思います。

 

私たちが知っているストレッチ運動は、

伝統的なヨガの代表的なハタヨガから

とり入れられているものです。

 

ハタヨガなどのヨガは、仏教と同じ目的。

悟りを開くための手段として用いられていることは、あまり知られていません。

2世紀ー4世紀ごろには、ヨガはこのように定義されて文献に示されています。

 

ヨーガとは心素の働きを止滅することである (パタンジャリ 『ヨーガ・スートラ』1-2)

 

 

 

ヨガの誤解

ホットヨガやパワーヨガなど、

スポーツクラブや、

カルチャースクールでフィットネスとして

行われているヨガは、

ヨガという名前がついていますが、

それはポーズです。

それだけでは、

ヨガ本来の目的は達成できないでしょう。

 

この違いを知ると、

さまざまな危険を回避できます。

ヨガのことを「心と体をほぐして整える」

と認識しつつ、

実際に思い浮かべるのは

ポーズだったりしませんか。

 

そのことで、

ポーズをとってバランスを保つことが、

心と体のバランスなのだという

錯覚に陥りやすく、

また、生来もって生まれた体が、

たまたま柔らかく、

ポーズがとりやすかったりしたために、

特別な人間になったかのようなエゴや、

錯覚をひき起こしてしまうことも

多々あります。

そうなると、ヨガがめざす、

正しい理解からは、遠ざかり、

成長ができなくなります。

 

それに、体が固い人や動かしにくい人は、

心の柔軟性に欠けているといえるでしょうか。

人間の優劣や人格が体の柔軟性に

左右されることはありません。

 

それは、「心の持ち方」や「生き方」

に影響をうけます。

これは、個人の意志と選択になり、

体の柔軟性とは関係ありません。

 

最近の流行のヨガは、エアロビクスなどのフィットネスの一部として捉えるのが

適切だといえます。

 

 

ピラティスとヨガのつながり

他に、ピラティスもヨガの要素が

とり入れられていますが、

ピラティスの背景にあるのは、

仏教でなくダンスです。

ダンスを科学的に分析した、

ルドルフ・ラバンの動きの 基本の要素 や

エフォートとよばれる動きの質が考慮され、

動きの正確性や質そのもにフォーカスが

置かれているのが、

本来のピラティスです。

これはピラティスが、

ダンスの父である ラバン に出会い、

ダンサーからハリウッドや

世界に広まりました。

モダンダンスの多くの

パイオニア達(マーサ・グラハムなど)は、

皆ピラティスの生徒でした。

(またダンスムーブメントセラピーには、

ラバンの動作分析法がとり入れられています)

 

 

生きる日常すべてがヨガ

このように、流行のフィットネスとしてのヨガやピラティスと、

本当のヨガのもつ目的は全く違います。

フィットネスとしてなのか、「体/心/精神」を宇宙にまで広げて調和とバランスを求めるのかでは、

生きる意味も価値もかわってきます。

混同してしまうと、心と体のバランス調整がとれずに、病気やケガにつながってしまうかもしれません。

ひどい場合には、精神のバランスが崩れてしまうかもしれません。

 

自分の心と体にフォーカスをあてすぎて、

全体としての調和を見失ってしまっては本末転倒ですね。

自分の理想と、現実の自分とのギャップが感じられますか。

ギャップは誰にでも起こります。

 

呼吸を感じるだけでも、発見は多いはず。

生きることに呼吸は欠かせません。

日常のすべてがヨガなのです。

 

 

3つの毒

すべてを破壊に導くもの、共生共存の思考で、

全体との調和とバランスを大切にするのに、

毒となるのが3つの毒です。

人々の苦しみもこの毒からうみだされ、

全ての苦しみの親分が3つの毒です。

私たちの欲望が全ての破壊に導くことは、

「原発の問題」をみれば明らかですね。

 

チベット仏教や医学では、三毒を

正しく理解することが大切だと学びましたが、

一般に3つの毒は、いろんな解釈があるようで、その訳も様々なようです。

 

 

貧(とん)= 欲望(さまざまなものが対象となる。執着)

  何でも手に入れたいし、手に入れても満足しない、むさぼりの心。

我欲や利欲を求めてやまないこと。

欲望にとらわれた心。

欲によって、現実が見えなくなり、

架空な欲望妄想によって

        大きな苦しみを自らおこす。

 

瞋(じん)= 憎しみ(怒りと深く関わっている)

自分の思いのままにならないことへ怒ること。何事にも怒り、腹立たしく思う。

思い通りにならないことを他のせいにする。

力で相手をねじふせようとする気持ち。

妬み、嫉妬、怨み等の誠実になれない心。

 

癡(ち)=  無知 (無判別、無思慮、思いやりのなさ、知ったかぶり)

正しいものを見極められないおろかさ。

ずるさや怠けの心。

相手を妬んだり裏切ったり傷つけたりしても

何とも思わずにいる。

 自他の分別から抜けられぬ心。

何が正しいかわからずにいる。

教えに対する無知な心。

物事の善し悪しを正しく認識できずにいる。

  ただの無知識のことではなく

悶々としている愚痴の状態。

現実を見る視野と分析力が

貧しいことに自覚がなく、

プライド等で知ったかぶりをしてしまい、

誤解の世界で迷走する心。

     

 

これらの3つの毒は私たちの誰にでもあるものとされています。

その消滅につとめ、自分だけでなく世の中にバランスと調和をもたらそうと努力をする人と、

理解しようとせずに、無知、欲望、憎しみの心で、全てを破壊しようとする人がいると言われます。

 

日本では、これを「無痛文明」「無痛化した社会」 (人の痛みを感じない社会) と呼び、

理解と努力に励んでいる人を徹底的に傷つける社会だと分析し、言語化する哲学者もおられます。

 

私たちは、生きていると 「どうしたらいいのかわからない」 という場面に直面することもありますが、

「どうしたらいいのか」 を具体的に示し、伝える人々が他にも世界中にいることを忘れないでください。

 

全ての破壊は極端な例ですが、本来のダンスやヨガを学ぶ時にも、必ず妨げとなる要素です。

最後に、ブッタはどのように心の要素を分析し、そして、私たちはどうあるべきだと説いたのでしょうか。

 

 

人間は、現実と希望とのギャップに常に苦しむものだとブッダは説いた。

 人には生存への欲求があり、

 世の中が自分にとって都合の良い状態であることを願っている。

 しかし、その願いがかなわないと知る時、人は正常な判断力を失い、

 「あの人は私に意地悪をしている」などと、根拠なく思いこむことがある。

 ブッダはこうした状態を「無明」と称した。”

 

 

“人は様々なものに執着して生きている。しかし執着が過度に強くなると、

 家族や財産といった、本来幸せをもたらすはずのものも、

 自分の思い通りにならないことにいらだち、苦しみを感じてしまう。

 ブッダは、自分勝手な執着をいましめるとともに、

 自分の教えについても、過度に執着してはならないと説いた。

 そして、自分を救えるのはあくまでも自分自身であり、

 自分の心を正しく鍛えることによって、心の平安を得ることが出来るとした。”

 

 

NHK 100分de名著 真理のことば より